「少年」と「青年」の間をゆらゆらする息子に左肩を掴まれていた話。
「自分の眼鏡を買いに行く」という、代打不能な用事で不本意ながら母である私と電車に乗って街に出かけることになって、息子はとてもめんどくさそう。
しかも急病人救護の影響で電車が遅れ、通勤電車並みの満員電車で、なんとか乗り込む。掴まるところはなかったけれど、通勤で満員電車の乗り方を心得ている私は問題ない。息子の掴まるところはあるだろうかと確認しようとした時、彼は左手のスマホから目を離さないまま、右手で私に掴まってきた。
私より10cm以上背が高い息子がガシッと掴んできたのは、私の手でも、服の裾でもなく、左肩。
揺れるたびに力が入るその手の動きを感じながら、自分より背の高い人に身体的に頼られているのはなんだか奇妙なことだなと思った。
中学生の息子の心は「少年」と「青年」の間をゆらゆらしている。
身体は大きくても、今この瞬間は「少年」だ。
もう少ししたら、私の身体に触ることさえ拒否するかもしれない。
そのうち、何かに掴まること自体が不要になるかもしれない。
いずれ、並んで歩く機会が滅多にないことになるかもしれない。
そして、いつか来る遠い将来、私が電車の揺れに耐えられないかもと心配し支えてくれるかもしれない。
その日が来るのが楽しみです。
公共の場で、10年前と立場逆転した話。
元々親の用事にほいほいついてくるタイプではなかったけれど、中学生になるとより一緒に出掛ける機会が減った。
どうしても同行する用事があり、渋々電車で出かけたある日。
商業施設で私があることを思い出し、思わず「あ!」と大きめの声を挙げた後、通常の大きさの声で「パパに○○っていうの忘れたね」と伝えたら、「なんでいちいち大きな声を出すの?静かにしてよ」と言われてしまった。
『電車の中では小さい声で話そうね』と小さかった息子に語り掛けた10年前とすっかり立場逆転だ。
そんな彼の声はいまや低くてボソボソと小さくて何を言っているかよく聞こえない。それを言うと「ママの耳が悪いと思う」と言われてしまった。
「おばさんだからかな」と返した後、ふと、そういえば、私も確か20歳くらいのとき、電車のなかで話す母親に対して「声が大きい」と思ったことがあるのを思い出した。
中学生男子のボソボソ声が聞こえなくなるのは年齢的なものだろうか。
老化というより、ジェネレーション周波数ギャップ(造語)のようなものじゃないかなと勝手納得している。